全飲連ゼミナール
平成16年度 北海道・東北ブロック講習会
平成16年10月27日(水)福島市(土湯温泉・山水荘)笑いと商い
株式会社よしもと倶楽部 講師/早坂 光弘 先生●吉本興業に入ったきっかけ
今日は私自身が吉本興業に入ったいきさつから、芸人の育成、舞台をどのように設定して笑いを取るか、また普段の訓練の中でどういう笑いが必要なのかということを中心にお話していきますので、その中で皆様が、戦略なり戦術なりを組み立てていただければと思います。
私が吉本興業に入社したのは、昭和40年の4月です。実はその前に味の素に入社が決まっていましたが、昭和39年は一般会計士が公認会計士に昇格する年度で、その講習会に参加したところ、たまたま横に座っていた吉本興業の非常勤常務の加藤さんと親しくなり「君に味の素は向かない」と言われ、吉本興業の入社試験を受けることを勧められたのです。1,863名受けて採用は8名でした。なぜ採用されたのかわかりませんが、その8名は全て運動部出身でした。
面接試験で「君は休みをどう思うか?」と聞かれ、「若いので休みは要りません」と答えましたが、これが採用になった一つの要因だと思います。次に「どれだけ酒が飲めるか?」と聞かれ、「限界を知りませんので、ここに一升瓶を並べていただければやってみます」と言いました。「休みが欲しい」、「酒は飲めない」、と言った人は全て落されていました。
●過酷な新入社員研修
4月に見習社員の辞令が下り2日目から研修が始まりました。まず旧海軍学校に一か月間入れられ、そこで時間管理を教え込まれました。訓練を終えて本社に出社するときに、楽な格好で出社せよと言われましたのでTシャツとGパンで出社したところ、今度は3日間病院に入れられ、嫌になるほど注射を打たれました。検査を終えて本社に出社するときには、ボストンバックに下着パンツ2枚、Tシャツ3枚、洗面道具を入れて来るようにと言われ、今度は海外研修を命じられました。全員アメリカでしたが、行き先が全て違いました。当時14,500円の給料でしたが、30万円とシアトルまでの片道チケットが支給されました。
シアトルに到着し、研修目的でもあるエリアの劇場訪問をしようと、劇場までの道順を聞いたのですが英語が通じないのです。何とか劇場まで行き、支配人に挨拶して劇場を案内してもらいました。次にホテルを探したのですが通じず、何か食べなくてはとレストランに入っても通じないのです。仕方がないので公園に戻って新聞紙をベンチの上と下に敷いて寝ました。2日目、3日目も水を飲んで過ごす状態で、もう駄目だと崖っぷちに立ったときにひらめいたのです。「店に入る人についていって同じ注文をすれば食べられる!」。さっそく店の前でお客を見つけて真似をしたところ、コーラとハンバーガーが通じたのです。何事にも必ず壁というのはありますが、「必ず道はある」と信じて行動したことが解決した一つの要因です。できないことというのは意外になくて、一生懸命していないだけだと思いました。三か月後、私はまともに帰ってくることができました。
しかしそれからが本当のオリエンテーリングでした。一日目は会議室に集められ、「お前達が生きてきた中で一番素晴らしいと思う女性を一時間以内にここに連れて来い」と言われました。私は東北出身で口下手だったので、女性に声を掛けることができず、道頓堀で女性を見ていたところ、ちょうどキレイな女性が通りかかったので、名刺を見せて「今、試験で一番キレイな女性を探してくるようにと言われている」と告げました。何とか承諾してもらい、会議室に連れて行くとその女性が一番良いと褒められました。
また、なんば花月に連れて行かれ、お客様が入らない時間帯に二組の漫才、二人の落語家を前に、「笑ったら給料を差し引く」と言われました。芸人も必死で笑わせようとしてきますので、思わず脂汗が出てきました。「お前達は笑わせる立場なので、笑ったらいかんのだ」と、そんな訓練もありました。
●自分で考えざるをえないように仕掛けを
10月に劇場に配属。当時は雑用係でした。劇場社員はプロデューサーであり、従ってお客様の入りは全て支配人の責任、その入りの手腕は全て支配人にかかってくるのです。1千500万くらいの売り上げ見込みが1千300万位だったので、何とか挽回しなくてはと、簡単なコントを「ちゃんばらトリオ」にさせました。ところがリアル感がないのです。人を本当に切っているように見えない。すぐに中止して、一か月間屠殺場で60〜70頭の牛を日本刀で切る練習し、その経験を芸人に話すとリアルさが出てきました。人を切る音も考え、キャベツを中華包丁で切る音を使いました。すると、始めの10日間は人が入りませんでしたが、口コミで次の週から700席の会場に1,000人以上のお客様が来たのです。ウワサがウワサを生んで、半年間くらい行いました。吉本興業は、自分で考えざるをえないような仕掛けをするのです。
今は我々の時のような過酷な訓練はありません。それで間違った方向に進み、危うくなったのが昭和60年です。それは上意下達が原因です。考える人が社長であり役員で、その部下は「与えられたことをやっていればいい」という習慣がついてしまったのです。
●心で聴いて耳で聞く
人には与えられた二つのモノがあります。一つは時間、もう一つは脳力です。人は640億個の脳細胞を持っているのに3分の1も使っていません。考えることによっていろいろな発想が生まれるのです。皆さんは部下とか店員の話を聞いていますか? 心で聴いて耳で聞く。「今週の売り上げいくらなの?」、「今どの位いっているの?」、「今週はやっていけるの?」など、考えさせる訓練をぜひおやりになって下さい。戦略は皆さんが持たなければいけませんが、しかし戦略を軍に考えさせることは可能です。皆さんの戦略がAだとしたら、部下はAからDまでを考える。その代わり皆さんにはBからDを潰していくという作業があります。なぜそれが駄目なのか、徹底的に検証すればいいのです。そういう訓練を行ってください。
現在、よしもと倶楽部でもこれを実践しています。私が入った頃は、役員や社長から「挨拶」がなっていなかった。そこで役員会で率先して「おはようございます」ということを徹底させました。また電話をなかなか取らないことや、投げやりな電話の応対も直させました。「電話は金だ。お前達の気分次第でお金にもなるし石にもなる!」と指導しました。
先日、一週間ほど中国に行ってきました。中国というのは恐ろしいところで、かつては日本からお金を吸い上げてあらゆる技術力を盗んで一生懸命育成する社会でしたが、今は違います。日本は相手にせずにアメリカを相手にしています。また上流階級と貧富の差が激しく、上流階級の子どもはベンツやロールスロイスで通学しています。これが大人になったらどうなってしまうのか、空恐ろしくなりました。今我々は中国に対し、モノの研究を依頼するだけでは駄目です。こちらから良いモノを持っていって合弁を作りながら、彼らの人力と能力を高めていくことが必要なのだと思います。
●仕事を楽しみにさせる
「いらっしゃいませ」、「かしこまりました」、「ラーメンお願いします」という言葉、一回目は新鮮に聞こえますが、2回目から不信感が、3回目には画一された形を非常に強く感じます。地域には密着した店の笑いや会話、あるいは食材の提供、内容があると思います。また、その地域ならではの挨拶や呼びかけがあると思います。関西なら「儲かりまっか?」「ぼちぼちでんな」が会話になっています。地域差があるのだから、画一されたものでは対応しきれないのではないかと思うのです。
社員に楽しく仕事をさせるためには、仕事を楽しみにさせることです。我々の企業では会社は遊びの場であって仕事をするところではありません。仕事は自分ひとりになったときにすることです。すると社員は遊ばなくてはいけないと考える。考えるからいろいろな発想が生まれてくるのです。
●ビジョンに向けて努力できる人へ
「食べ物屋だからこうあらねばならない」ということはないと思います。むしろ食べ物屋だからこそ可能性は無限に広がっていると思うのです。感動を生む食べ物は、今後も継続して必要とされると思います。笑いも同じで、追求していく必要があります。私は芸人達と全国をまわりましたが、その地域性を舞台に取り入れることを心掛けました。食べ物にも地域の様々なものがありますので、そういったものを食材に活かして欲しいのです。
吉本興業は不思議な会社で、年齢は関係ありません。やる気がある人間は70、80歳になってもやり、やる気が無くなったら去っていくという企業です。やる気とは、自分が与えられた仕事以外のモノをどんどん見つけることです。
私は一年間で19人ほど辞めてもらいました。それは自分にきちんとしたビジョンを持っていない人、与えられた事しかやっていない人です。また、役員から社員まで給料を年俸制にしました。一番大きな浪費は人件費だと思います。今、日本の社会は縦から横に変化しています。経営者と同じレベルまで彼らに考えさせようとしているのです。目標を立て、どうしたらいいか考えさせることをすべきなのです。また具体的に発表させる機会を作り、とことん考えさせる進め方をするのです。いつまでやるのか、だれがやるのか、全て質問すると詰まってきます。質問に詰まらなくなったら、よくそこまで考えたと初めて褒めるのです。
みなさんも経営戦略・戦術の中で、今までのやり方を変えていただきたいのは、部下との会話です。彼らが自分で段取りをつけるような状態を作り上げること。それを仕掛けていかないと企業は成長していかず、止まってしまいます。ぜひ実践していただきたいと思います。
●講師プロフィール
昭和18年1月生まれ。40年3月、拓殖大学商学部卒業。4月、吉本興業株式会社入社。支配人・プロデューサーを兼ね、梅田花月劇場、京都花月劇場、なんば花月劇場支配人を歴任。昭和55年8月、吉本興業退職。9月、株式会社佐藤商会入社。総務課長、営業所長等を歴職。平成15年1月、佐藤商会を定年退職。3月、吉本興業の系列会社、株式会社よしもと倶楽部に入社。現在、社長室付東日本担当。