記 念 講 演

株式会社 加ト吉 
代表取締役会長兼社長 加藤 義和 氏 

がんばれば、ここまでやれる 
 ただいまご紹介いただきました加ト吉グループの加藤です。本日の演題は「がんばれば、ここまでやれる」です。私自身、20歳で会社を興し、2年前に45周年を迎えました。我が社では5周年ごとに目標を設定していますが、40周年の時には「変革への挑戦」を掲げて、冷凍食品メーカーとして「米・ご飯革命」「価格革命」に挑戦しました。そして、45周年には「がんばれば、ここまでやれる」、厳しい時代であってもがんばればできるんだということを掲げました。
 当社はグループで東証一部上場企業として今期2千800億、130億の利益を出す企業となりました。海外でも、中国では1万4千人、タイやインドネシアを含めると2万人近い社員ががんばっています。地元観音寺市では、市議会議員や市長もやらせていただきました。
 この私がここまで頑張って来れたことを知っていただくには、私の生い立ちを知っていただくことが一番分かりやすいです。

働く尊さ 喜びをみて育つ
 昭和20年、私が9歳、弟4歳、妹1歳、母29歳でした。父が沖縄で戦死しました。家業は、海老や煮干の海産物の加工屋でした。当時5月から10月までが繁忙期でした。しかし、母は女手で三人の子供を育てるために、10月下旬からは農家に手伝いに、12月から4月にはかまぼこ屋さんに手伝いに行っていました。同業者が遊んでいる時期にも一生懸命に働いていたんです。働く尊さ、喜びを見て、私は育ちました。
 15歳のとき、観音寺商業高校に進学する直前に祖母が倒れました。海産物の加工には、小さい船を動かす人手が必要でした。母がそれをやるわけには行かない。そこで、私は苦しみ悩みましたが、高校進学をあきらめて家業を継ぐことを決めました。
 12月のシーズンオフ、私は誰に言われるでもなく、自転車に乗って行商を始めました。25キロ離れた琴平町まで、朝5時に出発して毎日通いました。最初は、大きな旅館や料亭の調理場になんか入れてもらえませんでした。そこで、うどん屋さんや小さな旅館に行って、忙しいときに手伝うんです。そうしている内に、買ってもらえるようになりました。頑張れば報われるということを15歳で経験したのです。行商できたのは、母の頑張っている姿を見ていたからです。
 昭和26年当時、学校教員の給料が1万2,000円でした。私は、この行商で毎日600から700のかまぼこやてんぷらを売って、月に1万5千円の利益を得ることができました。翌年も10月に行商を始めました。ちょうどホンダのカブが売り出された頃です。3万5千円の赤いカブを買おうと注文しました。これで峠が楽に行き来できると思いました。しかし、一晩考えました。「バイクの後ろに詰める分しか商売できない」と思いやめました。
 そして、もっといい商売ないかと考えました。当時、冬場の海産物は生で大阪などに出荷していました。自分でこれをやればフルシーズン商売ができるわけです。大阪の市場に行って、鶴橋から来て大量に海老を買って帰る人の後を着けました。市場を通すと荷受、仲買に手数料を取られます。そこで、産地直で販売しようと考えたのです。これで成功して20歳で加ト吉を興したのです。

39歳で観音寺市長に
 27歳で青年会議所に入会しました。これは、40歳までの経済人が指導力開発や社会開発運動を行う団体です。活動の中で社会開発を実践するには、経営感覚を持った人間が議員になる必要があるのではないかという仲間の声に押されて、市議会議員に立候補しました。31歳でした。おかげさまでトップ当選いたしました。そして、37歳で市議会議長になりました。39歳のとき、当時、地元選出の大平正芳さんが首相になろうというときでした。大平さんに通じる人が市長にならなくては、という声に押されて市長になりました。四期16年間、地元のために働きました。

お客が必要とするニーズをつかむ
 財産もなく、高校にも行けなかった私が、なぜここまでやれたのか。会社創業以来、常に増収増益を重ねてきました。私みたいなものでもやれるんです。頑張れば。それを書いたのが、2年前に出版した「がんばればここまでやれる」です。7年前の創業40周年には「変革への挑戦」を出版しました。商売とは、お客様が必要としていることをやれば発展するんです。ニーズなんです。世の中が変わればニーズが変わる。これにいかに挑戦していくかです。
 冷凍加工食品の赤海老フライ三尾で15円、これは41年前の値段です。39年前に東京オリンピックが開催されました。東京から大阪へ新幹線が開通しました。まさに高度経済成長の頃です。大都市で人手が不足していて、集団就職で出て行きました。このときの私の商売のニーズはどうだったか。学校給食や産業給食の調理人が不足していたんです。短時間で大量の調理をするために、加工食品が求められました。その中でも、最も冷凍加工食品のニーズが高まったのです。作ればいくらでも売れました。
 わが町は四国の農漁村ですが、当時、そこでは農業や漁業だけでは子供たちを大学に行かせることができない。車を買うことができない。だから、どこかで働きたいというニーズがありました。そこで、主婦が集まれる場所に工場を建てました。どんどん売れる、どんどん作る。今では業界二番の企業です。今でも本社は四国にあります。これは、ニーズをつかむことで発展するということなんです。
 7年前、「米ご飯革命」を進めました。8年前から届出すれば米の商売ができるようになりました。それ以前は、できませんでした。冷凍食品は、15年前まではハンバーグや魚など副食が主でした。それ以降、主食分野に入ってきました。焼きおにぎり、ピラフ、冷凍うどん、そば、ラーメンなどです。私は讃岐ですから、冷凍うどんに力を入れました。今では、一日150万食が売れています。ただし、ご飯の分野が遅れていました。9年前に長岡に講演に行き、そこで食べたご飯がおいしかった。コシヒカリをおむすびにしてもらって食べたら、本当においしかった。それでご飯に本格的に力を入れようと思い、魚沼あたりで工場用地を探しました。塩沢町に6千坪の工場を建設して、冷凍米飯を始めました。大変、売れ行きがよく今では、工場を1万坪に増床しております。

ご飯の加ト吉へ
 中国で寿司海老のブラックタイガーと甘エビを加工していますが、寿司ネタですから下に十グラムのシャリが付きます。てんぷらエビには丼のご飯が付きます。それで米飯に進出したんです。今では、お米とご飯で410億円の商売をしています。
 米に力を入れる理由は国策として、政府が食糧の自給率を40%から45%に引き上げようとしているからです。そのためには、米か馬鈴薯を増やすしかないです。お米を食べやすくする必要があるんです。かつては、食品業界を制するには小麦粉を制すると言われてきました。小麦粉市場は5千億円です。この小麦が3兆円の加工食品を生んでいます。しかし、私はこれからはお米を制する者が食品加工産業を制すると考えています。米は2兆5千億円あります。小麦粉の5倍です。その内、皆さんの業界で半分、家庭で半分の米がご飯になります。1兆2.3千億円の米は3兆円のご飯製品になります。あと20年で家庭の炊飯器はなくなると考えています。なぜ無くなるのか。20年前にはどこの家庭にも小麦粉があって、てんぷらやお好み焼き、すいとん、うどんなどを作っていました。今では家庭に小麦粉が無いんです。お茶もそうです。いちいちお茶を入れないでペットボトルのお茶です。このように時代は変わってくるんです。20年後には「昔はお米があったのよ」となるかもしれないのです。そうなったときに、「冷凍エビフライの加ト吉」から「ご飯の加ト吉」になっていれば、大きく成長できるでしょう。そんな夢ロマンを持っています。

リストラでは景気は良くならない
 皆さんのお店もきっとニーズがあるはずです。これからのニーズはどんなものなのかを見極めなければなりません。ニーズは常に変わるものです。
 それから、価格革命です。私は8年前に「日本は、価格が高い」と言っていました。それは賃金や電気、油などすべてが高いからです。農業では農地が高いので、コストの掛からない先祖から受け継いだ土地でしか農業ができません。アメリカは土地が安いからどんどんチャレンジできる。農作物が安くできる。牛も安く育つ。だから、吉野家は安いのです。日本で作ったものだけでは280円にはならないのです。中国の工場で作っている製品の材料は、世界各国から輸入しています。輸送もチンタオから東京へ運ぶほうが、四国から東京へ運ぶより安いんです。
 こうして日本の物価が下がってきました。しかしこの価格が今より上がらないと景気は良くならない。私は四国と東京を往復していますが、東京は汐留、六本木、お台場など、人が集まりますから、価格が下がっても大丈夫です。私も出資したお台場の「大江戸温泉」には8月だけで12万人を集めました。四国では考えられない。今では東京と地方ではかなりの格差が付いています。政府の言う改革というのは、リストラです。リストラでは景気は良くならない。一時的には景気は悪くなる。市長時代に、12年間を掛けて行政改革を行いました。公用車を廃止したりして18%の無駄を無くしました。構造改革は、景気のいいときにやらないとダメです。皆さんの資産が目減りしています。ダウや土地も下がっているので、担保力が無い。銀行はお金を貸しません。国民の資産がここまで落ちているわけです。
 皆さんのメニュー単価を考えても大変だと思います。28年前に市長に就任したときと今を比べると、着る物や食べる物、家具、家電など今のほうが安いです。ただし、公務員の給料は3〜3.5倍なんです。グループで経営しているホテルもかつて1万5千円の宿泊料が1万円です。これ以上、物価を下げられない。

グローバル、スピード、革命、そして知る、学ぶ
 何事もニーズです。変わっていくニーズを捉えていけば自ずと繁栄していくわけです。私は、「知ろう、知ろう」「学ぼう、学ぼう」という気持ちに教えられることが多いのです。中国の陽明学で『知行合一』というのがあります。知ったらいいことは行動に移す。行動に移さなければ、知らないのと同じである、という教えがあります。世の中のニーズに応じて常に行動してくことです。私のモットーは「有言実行」でなく「有言速攻」です。速くやらなくてはならないのです。
 今までは、高かった日本の物価を下げるために、海外からモノを持ってくることは良かったのです。ただし、これを続けていくと私は社会から悪者になるんです。これからは、雇用問題が大切です。私は昨年から中国で作った物を中国で売っています。そこでGSRを掲げました。G(グローバル)なマーケットで、S(スピード)のあるR(革命)を行っていくのです。昨日、中国から帰ってきましたが、中国の沿岸部には日本の3倍の人口が住んでいます。33年前の大阪万博でロイヤルホストが加工食品を使ってレストランを出して、成功しました。中国の沿岸部はこの頃の日本と同じです。月給の平均が3万円です。日本はこの33年間で、外食産業で上場した企業は90社あるんです。この3倍の人口がいる中国です。それなら、中国で売っていこうと考えました。
 まさに世界規模で考えなくてはならないのです。東西冷戦が解けたときから、ロシア、中国を含めて世界規模でモノが動くようになりました。その時にこのGSRなのです。そして、「知る、学ぶ」が大切なのです。私は、寝室にはテレビを二台置いて、ニュース、旅行番組や食べ物の番組、野球などを同時に見ています。また携帯電話でもいろいろな情報を得ています。そう動いていると良い情報を沢山得ます。ただし、情報を知ったら金を掛けてお客さんに喜んでもらうように使うことです。そしてお客さんの声を聞いていくとアイデアが浮かぶわけです。

人にやる気を起こさせるのが経営者
 私の原点は瀬戸内海です。そこに取れるエビや魚を加工していた。少なければ高い。高い時に加工しても儲からない。沢山取れれば儲かる。でも、雨が降れば乾燥できない。シーズンがある。つまり、商売というのは非常に不安定だということです。安定はしない。良いお店を作っても、近くにもっと良いお店を作られれば、売り上げが落ちます。そういった不安定の中で、どう戦っていくかです。地域やお客さんが必要としているニーズに応えていくというのが私の考えです。
 社員にはコストのことも申し上げます。全国の市役所の職員給与は、平均710万から720万円です。1年で1,800時間ですから、一時間あたり4千円です。市長時代にも言ってました。「タバコ一本吸うのも5分かかる。これだけのコストを市民からいただいているんだから、考えて使え」「沢山もらっても一生懸命頑張れば高くない。少なくても頑張らなければ高いと言われる」と。当社は40歳で1時間あたり4千円です。民間は、経費必要ですから、それだけもらうには、その2.5倍を稼がなくてはならないです。そうなると1日8万円です。それだけ稼ぐことができるかどうかです。それから、1時間1万だとタバコを吸う5分は833円です。これがコストなんです。企業間においては、社員にいかにコストを意識させるかが経営のポイントです。
 やれば報われる、やらなければ取り残されるのが、経営です。競争がない予算主義は役所です。企業は決算主義です。競争しながら数字が出てくる競争経済です。13年前、企業と役所を掛け持ったときは、かつての西ドイツと東ドイツを往復していたような気分でした。すべては人ですが、人は環境によって考え方が変わります。環境づくりをいかに上手にして、人にやる気を起こさせるのが経営者です。人が頑張ればここまでやれる、ということを申し上げて、終わらせていただきます。

経歴
昭和11年、香川県観音寺市生まれ。昭和31年、加ト吉水産株式会社を設立。昭和42年、観音寺市議会議員。昭和47年、観音寺青年会議所理事長。昭和48年、観音寺市議会議長。昭和50年、観音寺市長。以後、四期16年を務める。昭和50年、株式会社加ト吉代表取締役会長。平成8年、株式会社加ト吉代表取締役会長兼社長。平成13年から現在まで、観音寺商工会議所会頭。