慟/哭/の/レ/ク/イ/エ/ム
〜この文を亡き行方昭蔵氏に捧ぐ〜
全飲連副会長 木曽秀雄

電話のベルが鳴った。出ると、地元の松本事務局長だった。
「理事長、驚いたらいけませんよ」
「えっ」何やら不吉な胸騒ぎがした。
「何かあった?」
「三重の行方理事長が亡くなられたそうです」
 私はその知らせに愕然とすると同時に、そんな馬鹿な、とも思った。彼は二週間ほど前、奥様とともに、元気で南米のカリブ海クルージングに出かけて、今日あたり「木曽さん帰ってきました」と、電話か手紙が舞い込むものと心待ちにしていたところだったから。
 確かに、彼は二年前に胃癌を患い、その胃を全摘出した病歴はあった。だがその後は、食べた物が胃の入り口で詰まるという症状に時々苦しんだようだが、それ以外は手術前の行方昭蔵そのもので、勇気凛凛、正を尊び、邪を嫌う熱血漢に戻っていた。
 彼に嫌われた者こそ哀れ。当人を前にして、歯に衣を着せず、堂々とその非を詰(なじ)った。やられる側はたまったものじゃない。さぞや、怨みつらみもあったろう。
 だが妙なことだが、彼には意外にも、共に天を戴かずというような敵はいなかったように思う。
 私にはその理由がわかる。それは、彼の類まれな魅力的な人柄にあったと思う。その魅力にひかれた彼の友人、知人、仲間が彼のまわりに蝟集し、彼の敵や異物を摘み出していたからだと信じている。
 行方昭蔵氏は、それはよい男だった。まさに男の中の男だった。
 松山が水飢饉にみまわれた年、彼は三重の津からトラック一杯の水を送ってくれた。それで一層友情が深まり、重慶から武漢までの三峡下り、大連、北京、万里の長城、香港等々、毎年のように中国旅行を共にした。ツネコ夫人と二人で松山に遊びに来てもくれた。
 私も彼がオーナーである、津市の「まつぜんフードサービス」の四十周年の祝賀会に、全飲連からは私だけを招いてくれて、お祝いのスピーチをさせていただいた。
 人は知らぬ。私は、彼・行方昭蔵氏に、男として惹きつけられたのは、その二重人格的性格にあった。一方で菩薩の慈悲の心を持った、限りなく優しい心根の人だったが、一方では彼と敵対したら一大事、夜叉を敵にまわしてしまったような恐怖感を味わうこととなるだろう。彼はそんな男だった。
 彼の慈悲の心を証明する、エピソードを一つだけご披露しておく。
 五十余年前の昔、頃は敗戦直後、日本の民は等しく飢餓状態に苦しんでいた。津のまちで、一人の少女が路頭に迷っていた。その少女と街角で遭遇した行方氏は、可哀想に思い、家に連れ帰り養育したという。沖縄の子で、敗戦の中のどさくさで、親と行きはぐれになったようだ。少し知能指数が足りないような子だったという。彼のことだ、大事に育てていたのだろう。
 その頃、NHKで「尋ね人の時間」という番組があった。あるとき、すでに沖縄に戻っていた親が、日本に置き去りにしてきた少女を探しているというアナウンスがあった。それを聞いた知人や親戚たちが「どうもあれは、昭蔵さんちで面倒みている子にちがいないで」ということになった。
 沖縄の親に連絡すると、間違いないということになり、行方氏はその子を連れて沖縄まで行った。当時、沖縄はアメリカ軍の管理下にあり、ビザを取るのも大変だったらしい。
 アメリカはやはり民主国家だから、沖縄はアメリカ軍に統治されてながらも、沖縄人の政府もあったようで、その府廰で、少女は両親に引き取られた。その時少女は、行方氏にしがみつき、「嫌じゃ嫌じゃ! このお父ちゃんがいい」と泣き叫んだという。
 この美談は沖縄の新聞に載った。行方氏は、自分の自慢話を多く語る人ではない。だが、こう言った。
「沖縄の政府の主席官がね、私をえらく買ってくれてね。国際通りで商売をしてみる気はありませんか? 沖縄人には金なぞありません。でも、アメリカの兵隊は金を持っています。商売したら儲かりますよ。行方さんにその気がさえあれば、私はあなたに喜んでいただけるお店を用意しますよ。それが私の沖縄人としての恩返しです」
 行方さんは、さればと、鳥羽の名産・真珠を売ることにした。その真珠店がめちゃめちゃ儲かったという。そうだと思う。すぐに朝鮮戦争も勃発し、アメリカ兵の戦時手当も手厚かった筈だから。
 そこからが、行方氏の大きさだ。彼は大儲けした金でビルを建て、そのビルを人に譲り渡して、沖縄から撤退している。その譲渡した相手は、少女の親だった。
 一方、彼の男っぽさ、侠客肌も持っていた。私は、人に彼を紹介する時は「津の魚市場の一心太助親分です」ということにしていた。
 そう紹介すると、ほとんどの人が怪訝そうに目をキョトキョトして、彼を改めて見た。そらそうだろう。小柄で、温厚そうな紳士に見えるこの老人を「親分」と呼んだって全くそぐわない。
 だが、彼をよく知る人は、決して彼を怒らせたりはしない。たいていの人は、彼の啖呵を聞いただけで震え上がるのだ。
「おい、お前、表へ出な。血ぃ吸ってやるで!」
 男なら、殴り合いの喧嘩ぐらい誰だってする。が、「血を吸ってやる」なんて啖呵を切られちゃ、これはびっくり玉手箱。たちまち戦意喪失だ。相手が吸血鬼のドラキュラ伯爵では、これは怖い。
 亡くなられる一か月前にお会いした時、そうだ、岐阜の井上理事長の藍綬のお祝いの席であった。彼は笑いながら、こう私に語った。
「さっきね、名古屋から岐阜へ来る電車の中でさ、茶髪のガキ共が五、六人、ドア口に座りこんで、ギャアギャア騒いでいたからさぁ、出入りのお客さんが迷惑してんのさ、おいお前ら、そこのいてやらんかい。と、俺が注意したら、何をこのオッサン偉そうに。しばいてもらいたいのかよ! と、喰ってかかりやがってさ。ちょうど電車が停車したときでさ、俺が先に降りて、よし、テメエら降りてきな、血ぃ吸ったるで! そしたら、ガキ共、おお怖ゎ。と言って、他の車両に移動して行きおったわい」
 すでに、癌は転移していて、さぞや肉体的ダメージも大きかったろうに、まさに、一心太助ここにありだった。
 その日、田中会長を中心に、仲間たち数人が別れがたい思いのまま、名古屋駅内の食堂で酒を呑んだ。行方氏はあまり呑まなかったが、最後までつきあっていた。
 別れ際に、来月はカスピ海だろ、楽しんでおいで」「ありがとう。それよりさ、三月初めに、わしは組合の連中と鈴鹿の町で、津の芸者総揚げして、ドンチャン騒ぎやることにしているのさ、木曽さんも来てよ」
「行きたいけど、行けんなぁ。忙しいもの」
「ふうん」行方さんはスーッと寂しげな翳を浮かべたが、すぐに快活に、「じゃ、元気でな!」
「あなたもね」
 あれがナメさんとの最後の別れだった。
 三重県組合役員は、鈴鹿のドンチャン騒ぎをこう語った。
 今になって気づくことですが、あのドンチャン騒ぎは、行方理事長の私ども役員との「お別れ会」だったように思えます。
 と申しますのは、理事長は、芸者衆の鳴り物に合わせ、軽妙に泥鰌すくいを踊ってくれましたが、その時に、はっきりとこういいました。今でも耳に残っています。
「おい、皆。よく見ておけよ。これがわしの見納めの踊りとなるでのう」
 あまり日をおかず、行方夫妻は南米に旅立った。
 カリブ海のクルージングは、どんな風だっただろう。それをツネコ夫人にお聞きするガサツさは、私には無い。
 行方昭蔵氏は、帰国後すぐに入院し、3月20日、幽冥の世界に昇天された。享年73才。
 お葬式は23日、厳粛に行われた。
 行方昭蔵氏は、津の名士、全飲連の名副会長だから、斎場はお別れを惜しむ人々で埋め尽くされた。
 全飲連を代表し、田中清三会長が立派な告別の辞を述べられた。
 次に、私の名が呼ばれた。私は祭壇に進む。ナメさんの遺影が私にニッコリ微笑んでいる。涙滂沱となった。泣きくれながら、私は何やら遺影に向かい、お別れの言葉を申し上げたような気がする。告別の辞などというもおこがましい、しっちゃかめっちゃかなことを言ったと思う。
 いいよなぁ、ナメさん。盛大にほとばしる俺の涙が、俺の万感の思いのこもった告別の辞だよ。
 ナメさん、友情をありがとう。合掌。