全青連・兵庫県研修会講演要旨

時代の流れを読み、
幸福な成功をつかむ

元全青連会長・大阪府副理事長
亀岡 育男氏

◎体力と気力が限界のとき、どうする
 1970年、大学2年生のとき、大阪万博に軽食店として出店するチャンスを得た。父親にアルバイト集めを任され一年かけて40人を集めた。オープン当初は入場者が伸び悩んだ。当時は労働争議が盛んで、アルバイトの代表者から時給アップを要求された。それを拒むと39人が辞めてしまった。現在のような求人誌がない時代なのでアルバイト募集も大変だったのだが、20日で39人を補充。この時の経験が「どんな壁でも乗り越えられる」という自信になった。
 その後、万博は盛況に。毎日朝4時から夜10時まで仕事詰めで気力も体力も限界だった。すべてを投げ出したいという気にもなった。気力が萎えてきたとき、今すべきことを一心不乱にやっていくと回復してくる。そこから進歩が生まれる。それを学んだのが大阪万博だった。

◎馬鹿な大将、敵より怖い
 1985年のつくば万博。入場者が少なく飲食店は大打撃を受けた。ついに出店者の中から自殺者が出た。主催者である万博協会と裁判で争うという事態に発展。そのときの交渉過程で、老獪な協会の担当者から「君らは出店を決めた時に、どれだけの調査をしたんだ。馬鹿な大将敵より怖いという言葉を知っているか。従業員は君らを慕って働きに来ているのに、こんな結果になったことは君らの責任だ」と逆に一喝された。それ以来、十分な調査で成功確率を上げていくことを肝に銘じました。
 これまで44箇所、112店を運営したが、成功率90%くらい。しかし、失敗した経験から得たものが多い。
 実はつくば万博を後々検証すると市場予測が間違っていたことが明らかになった。入場者2千万人に対して、飲食店舗の規模は4千万人分あった。

◎人間万事塞翁が馬
 1990年の国際花と緑の博覧会あたりから全体的な営業計画にも参画させてもらえるようになった。協会は来場者予測を適正な数字で計画するようになった。
 2004年の浜名湖花博では、企画コンペで負けて希望した場所に出店できなかった。協会から提示された店は規模が小さくあまり魅力的ではなかった。しかし、会場の中心でしかも大きな屋根のある場所だった。結果的にはイベント自体の成功と重なっていい商売になった。ねばり強く辛抱することでいい結果をもたらすということを学んだ。

◎愛知万博では、参加者会会長として調整役に
 出店者の代表を任されたが、愛知万博は開会当初に有名になった弁当騒動≠ェあった。当時の小泉首相の一言で弁当が持ち込み可能になり、出店者への事情説明に奔走。つくば万博の二の舞にしないために、それから「業界のエゴ」とマスコミに叩かれないように、根気強く説得。最終的には納得してもらい、それからは入場者も増加していって、すべての出店者が潤った。