味つづり〈40〉倉橋 柏山
おかめそば「信濃では月と仏とおらがそば」一茶の句である。異説とする人もある。そば好きには垂涎の新そばの季節到来である。
落語に「死ぬ前に一度でいい、つゆをたっぷりつけて食べたかった!!」の落ちがある。私もそば好きで毎日でもいい、どちらかと言うと、つゆをたっぷりで通の食べ方ではない。
江戸時代のそばはすべて手打ちであった。手打ち機械で打ったのとは異なって、そば肌が粗いため汁がそばによくからみつく。つゆも今より辛汁で、そばの裾のほう三分の一ほど汁につけ、スーッとすすって口に入れる。そののどごしの感触と香りを味わうのが江戸時代の食べ方で、今も変わりない。
今日石臼を使って粉を手びきすることはまれである。機械でそばを碾き、機械で打つ店が多い。つゆも昔とちがって甘口である。
新そばはほのかな香り、風味が真上という。石臼を使って静かに手まわしでそば粉を碾く。そして碾きたてを手打ちにして茹でて手早くさらし、ざるに盛ってこそ、そば特有の香りを堪能することができる。デリケートな食べ物である。
人伝にあの店は旨いと聞いて行っても大方失望する。味は個人の好みの差がはげしい。自分の口にあったそばを求めてさまよい歩くしかない。
そばは稜で、物の角という意味であり、種実の形が三稜をなし、稜麦から出た言葉であるといわれる。そばの子実を「玄そば」という。そばの殻を除いたものを(そばごめ)、それを製粉すると「そば粉」である。殻を取り除く精製度で、色の白い内層粉を一番粉、次に二番粉、三番粉などにわけられる。
「続日本紀」に、元正天皇の養老6年(722)「夏に雨がなく、稲田の枯死が多く、詔してそばを植えしめた」とあり、そばは古くから備荒食とされていた。最初はそばごめを粥にしたり、蒸して食べた。石臼の普及につれて小麦粉と同じように粉にひき、これに熱湯を加えてこねたものが「そばがき」である。又、餅風に焼いて食べたりした。
最初は切麦(うどん)の増量剤としてそば粉を混ぜた。そば粉が二、小麦粉が八の割合で、そば粉入りのうどんがそばのはじまりといわれる。
江戸時代も中期になると、市井にもそば好きが増え、そば粉が八、小麦粉二の「二八そば」が繁栄するようになってきた。江戸の末期には人口270人に一店のそば屋が成り立つほど江戸っ子に愛された。卵や山芋つなぎの生そばも人気の的になったといわれる。
小さい時から祖母の手打ちそばになれ親しみ、今でも田舎そば系統を好む。料理のミチに入った十代末、東京で「おかめそば」を食べ、味より、盛りつけの妙におどろいたことを今も鮮明におぼえている。よくもまあ、おかめの面そっくりに食材を盛りつけるものと感心した。
おかめそばは幕末の頃、上野池之端に近い七軒町の太田屋というそば屋が創案したといわれる。鼻を松茸で象るため、松茸の季節限定であったが、おかめの面の趣向が面白いにと人気が高まり、一年中品書に出すようになった。眼は湯葉を蝶形に結んで用い、鼻が松茸、かまぼこを左右から寄せ合わせて頬に見立てる。髪の毛は浅草海苔、口が椎茸という具合におかめの面を彷彿させる盛り方をする。店によって麩や玉子焼き、筍、三つ葉など用いる。所食材は異なるが、ひと目見ただけでおかめの面を想わせる盛り付けがこのそばの特色である。そば屋に入ればおかめそばという若い時があったが、特におかめはそばが好きだったわけではないが、盛りつけの妙味を楽しんだ青春時代があった。今は、もっぱらざるとかせいろ、それも手打ちの出来うるなら田舎系を好む。この稿を書くにあたって40数年振りにおかめそばを食べたが、若い時のおかめの感動はなかったが、おかめの顕在は嬉しかった。