理事長訪問 第6回 秋田
秋田県飲食業生活衛生同業組合
中島 康介 理事長に聞く
一期一会の精神で地域に根ざすことが大切です。秋田県の組合の成り立ちと、現在の構成についてお話いただけますか。
中島理事長(以下中島)●現在13支部あります。会員数は550人位。秋田は秋観連という組合が組織母体で、環同組合を昭和42年に立ち上げました。飲食、社交、喫茶、料理、この四つの組合を同時に立ち上げました。
当時の秋観連の会長で花岡さんという方がいました。この人はなかなか理想の持ち主で、飲食業、サービス業の人間は、社会に出ても非常に地位が低いから、しっかりとした組織を作って地位の向上を図ろうということで、昭和42年に環衛法が一部改正になった時を契機に、環境衛生同業組合を作ろうということになりました。
中島理事長が秋田県の組合で力を入れて取り組まれていることはどんなことですか。
中島●一年に一回講習会をやっています。その地域の人に皆集まっていただいて、組合の役員がそこに終結して、支部の活性化という意味もあり持ち回りで開催しています。一番大事な事は組合がその地域で認知されることです。地域で講習会を開催する時には、市長さん、町長さん、商工会議所や商工会の会頭さんや会長さんを呼んだり、それからまた地域の議員さんを呼んだりして、我々の仕事や組合活動を、まず知ってもらうようにしています。地域活性化の為には先ず組合の認知という考え方でやっています。
中島理事長は理事長を20年おやりになっていますが、組織をまとめていくのに常日頃心掛けていることありますか。
中島●私は一期一会の精神、出会いを大事にしています。サービス業というのは多くのお客さんとの出会いがあるし、その積み重ねで自分の商売の基礎を築いていかなければなりません。これは接客にも大事な事です。組合員の皆さん方にも「僕はこういう精神で店に立っていると、だから皆さんも一期一会の精神でやってもらいたい」と言っています。それと地域活動を大事にしなさいと僕は言っています。学校に子どもを入れたらPTA活動をちゃんとやりなさい、それから町内の事もちゃんとやりなさいと。地域に根差した飲食業者ということが、信用を築き、地域の中で業界の評価を高めていきます。地域活動をちゃんとして、同業の人が皆で力をあわせて、手を携えて自分の仕事を守っていくことが必要なんです。それは商売の情報交換にもつながります。
地域の飲食店の後継者の問題もクローズアップされていますが、中島理事長はどうお考えですか。
中島●そうですね。私自身も身内に後継者はいません。だけど従業員には後継ぎがいます。少子社会ですから、今は子どもに後を継がせるという時代ではないとも言えます。自分の子に継がせようと思うから悩むんです。従業員とか幅広く考えればいいわけです。そのためには、職場を魅力的なものにしなければなりません。従業員自らがあとを継ぎたいと思ってもらわなければ。働いている人に夢を与えなければならないでしょう。
地域に根ざすということ、人を育てるということが大切なのですね。そこに組合の存在意義があるのですね。
中島●組織に入ることは人を覚えることです。組織の中で育ててもらう。そこには先輩もいる、いろんな経験者もいるわけです。そういう人に、自ら接点を求めて話を聞いて、自分が飛び込んで、自分の得たいものを自分で身につけて、そして商売の中に活かすわけです。だから組合にメリットを求めるのではなく、自分が得ていけばいいわけです。そういう組織にはエネルギーがあります。
最後に中島理事長は全飲連の組織委員長を務められていますが、今後、全飲連として取り組むべき課題をお話下さい。
中島●高知、徳島、滋賀、山梨、茨木、宮城に組織がないわけです。この加盟を何とかしていきたい。新しい組織を作るというのはなかなか難しい面があり、同業の3分の2の賛同を得ないと許認可がでません。この壁を何とか全飲連として厚生労働省に働きかけて、もう少しハードルを下げてもらいたいと考えています。それと料理業と飲食が合体しても良いと思います。未組織県には料理業がちゃんとありますから、そういう組合に全飲連が肉付けしていく方法もあると思います。いずれにしても全飲連として行政当局に働きかけて、細分化した生衛の組織をもう少し簡素化していくことが必要だと考えています。それと組合加盟のハードルを下げて会員が自由に加盟できて、平等の恩恵を受けられるような制度改正の検討も必要だと考えてます。組合の活動内容にもよりますし、単に会費を低くしたから加盟率が高まるものではありませんが、数は力ですから、多くの人が参加すればもっともっと大きな事ができると思います。
取材を終えて
理事長を務めて20年。おそらく全飲連でもっとも古参の理事長。しかし就任したのが五十歳前であったからまだまだ若い。長野県の飯田に生まれ、東京に出てこの世界に入る。
「独立して商売を始めた当時、お客さんから1,000円のお金をもらっても、つり銭がないんだよ。だからタバコ買いにやらせるんですよ。母ちゃんちょっとタバコ買って来いって。そうやったもんですよ」と開業時代の苦労を振り返る。現在の店名は映画マイフェアレディが流行った昭和39年東京オリンピックの年に、この映画から名付けた。
飲食業界での数々の要職を歴任。指導センターの理事長も昭和63年から平成5年まで3期務める。全国でも早い時期に建設された秋田の環衛ビルを運営管理する環衛協会の専務理事も務める。
趣味はお持ちですか? とお聞きすると「どうも商売が趣味みたいなもので、秋田にいる時は何も用事がなくても必ず組合には顔を出しているんですよ。維持管理がいろいろあるものですからね。いろいろと古いビルだからしょっちゅう故障があったりするのでその手配を私がみんなやっています。だからほとんど仕事が趣味みたいなもので、困ったものですね」と笑顔で答えてくれた。
今も毎日お店でお客様をお相手する元気はつらつの中島理事長でした。